「友達」という言葉で全てを許す人たち? でも、大事な夢を実現するための「仲間」こそが大切。

「友達」という言葉で全てを許す人たち? でも、大事な夢を実現するための「仲間」こそが大切。

「監督は女優さんなんかと、よく飲み会するんでしょう? いいなあ」なんてよく言われるが、そんなことはまずない。俳優とは基本、一線を引き、プライベートではなるべく会わないようにしている。連絡もまず取らない。キャストだけではなく、スタッフとも距離を置く。撮影前は打ち合わせで何度も会うが、用もないのに、飲みに誘ったりはしない。

なぜか? それは「友達」と「仲間」の線を引くため。「友達」というと、とてもいい響きがあり、かけがえのない大切な存在と思いがち。確かにその通りであり、僕は何度も友達に助けられた。が、同時に「友達」という美名の元に勘違いした人たちが、夢破れて消えて行った姿も見てきた。少し長いがそんな話をする。

学生時代。自主映画というのをやっていた。友達を集め、8ミリフィルムを使い、映画を作る。大学の映研のような活動。僕もそんな1人、友達を集めて映画撮影していたが、なかなか大変だった。「将来、プロになる!」と断言する連中と映画を作る。

例えば午前8時に代官山駅集合。ロケバスはないので、歩きでロケ場所の公園まで行き撮影する。が、必ず遅れてくるものがいる。5分、10分なら分かるが、1時間、2時間遅刻する者。当時は携帯電話もない。

なのに、必ず遅刻して来る奴がいる。時間がもったいないので、置いて行こうとすると、こう言う奴がいる。「可哀想だよ。待ってやろうよ」すでに30分待っている。撮影時間を30分失った訳だが、彼は「待とう!」という。が、待つことで、どれだけ多くのものを失うかが実感できていない。

撮影ができるのは夕方まで、だから、朝早くに集合して撮影。もし、撮り残しが出たら、もう一度、その公園に来て続きを撮らねばならない。そうなると、撮影終了が1日遅れる。交通費も食費も自腹だ。皆、それを負担せねばならない。その日だけ。という約束でバイトを休んで来てもらった友人もいる。その人にも、頼み込み、もう一日来てもらわねばならない。



実際、そうなったことがあったが、遅刻した者を庇った友人は、遅刻した者を責めることはなく「日が暮れたんだから仕方ない」ということが多い。これがプロデビューを目指している訳ではない、お手伝いに来た大学生がいうなら分かる。或はサークル活動ならいいだろう。けど、プロの映画監督を目指して映画作りをしている友人たちが、これでいいのか? 

おかしいのは「プロの映画監督を目指している!」という同じ夢があることで知り合い、親しくなった友達同士なのだ。なのに、その夢を追うための足を引っ張る友人を庇うのはどういうことか? 僕は思う。映画監督への夢を共に目指す友達なら、その夢のために助け合い、励まし合うものであり、トラブルを起こしたり、撮影の邪魔をしてしまったことを庇い許し合うべきではない。

だから、その手の友人はメンバーから外した。しかし、友人たちは外された者に同情、その後も付き合いを続け、やがて、飲み会にも僕だけ声がかからなくなった。僕を外して彼らは映画作りを続けたか?というと、そんなことはなく。1人。また1人と夢破れ、東京を去って行った。

その後、彼らは連絡を取り合うこともなく、バラバラになったという。そんな友人たちの背景を考えると、いろんなことが見えてきた。もともと彼らははみ出し者。クラスで友達も少なく、勉強もできず、映画が好きなだけで、家族にも疎まれていた高校生だった。

それが「映画監督になろう!」と東京に出て来て、同じようなタイプの存在と出会った。共感し、仲良くなる。友達がいなかった彼らは嬉しかった。それゆえ、撮影に遅れて来ても、トラブルを起こしても、責めるより庇ってしまった。つまり、あまりに寂しい高校時代を送ってきたので「友達」に対する強い思いを抱いていた。プロデビューも嘘ではないが、今目の前にいる友達を優先したのだろう。



しかし、結果は傷ついた者同士が、傷を嘗め合う形となり。共に夢に向かって励まし合うという形にはならなかった。そして、夢破れて消えて行った。彼らは本当に友達思いだった。が、「友達」という意味をはき違えたていた。だから、僕はキャストやスタッフとも一線を引く。そして彼らは「友達」というより「仲間」だと考える。感動的な映画を一緒に作るための「仲間」。友達ありきで考えると、自主映画時代の悲劇を繰り返すからだ。

例えば、親しい俳優がいて、「友達」だったとする。そいつは頑張り屋だが、なかなか映画出演がない。それを「友達」として応援し出演させる。でも、やはり芝居がうまくない。そのために映画のクオリティが下がる。どんなに親しい「友達」でも、それは監督してやってはいけないこと。

或は大きな失態をした俳優を「友達」だからと、また出演させてはいけない。カタギの友人はいう「可哀想だろう? もう一度チャンスをやれよ。友達だろ?」そう言われたこともあるが、自主映画時代の友人を思い出す。「友達」だからと庇ってはいけない。結果、いろんな人に迷惑をかけ、互いに辛い思いをする。その映画が崩壊することだってある。それで誰が喜ぶというのか? 大切なのは友人を助けることではなく、素晴らしい映画を作ること。

そんな訳で、僕は一線を引く。互いのことを深く知ると、どうしても甘えが出る。同情する。そして、相手に罪があっても許そうと思える。「監督は私のことを分かってくれているから、許してくれるはず」という甘えがでる。僕も「こいつのために何とかしてやりたい」と思う。本来それは「友情」と呼ばれるものだが、諸刃の件。映画作りではマイナス。だから距離を置く。

自分にとって本当に大事なのは何か? 「感動してもらえる素敵な映画を作ることか?」だ。「仕事に影響しても、友達を庇うこと」ではない。大切なのは「仲間」と素晴らしい作品を作ること。その「仲間」というのは手を抜いたり、作品を阻害することを許し合う存在ではなく、同じ夢や目的を持ち、助け合う存在。そんなふうに考えている。





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2015年05月24日 Posted byクロエ at 23:31 │Comments(0)MyOption

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