「向日葵の丘」その昔、僕がトラブルメーカーと呼ばれた理由?



その昔、僕がトラブルメーカーと呼ばれた理由?

以前、先輩から「太田はトラブルメーカーだからな!」とよく言われた。といっても僕は仕事先で暴れたり、怒鳴ったりしたことはない。飲んで取り乱したこともない。にも関わらず、なぜ、トラブルメーカーと呼ばれるようになったのか?

映像の仕事はいろんなことがある。ま、通常の会社でもそうだが、理不尽なことや筋の通らないことがときどきある。上司が無茶なことを言い出したり、これまでの努力が水の泡になることもある。

あるとき、製作会社の社長から直接、任せられていた仕事があり、それが始まるのを待機。他の仕事を入れないでいた。ら、その仕事がすでに違うスタッフがやっているという話を聞いた。どうーなっているのか? 担当者に連絡すると、「別の人間に任せましたよ」という。だったら、まずこちらに連絡をして、同時に謝罪するのが筋というものだ。



そのためにスケジュールを空けて待っていたのだ。仕事がなくなったからと、すぐに別の仕事がある訳ではない。今月の収入がゼロになる。来月どーやって生活すればいい?ということになる。が、担当者は悪びれず「誰に任せるかは、こちらが決めることだよ」と開き直る。が、すでに僕は社長から依頼を受けているのだ。それを部下が勝手に依頼先を変えてどーする? 

そんな理不尽なことが映像の世界ではよくある。が、ほとんどは仕事をもらうフリーのスタッフが泣き寝入りして終わる。文句をいって印象を悪くしたら、次から仕事がもらえなくなるからだ。だが、僕は許せなくて、殴り込みに行こうかと考えた。が、それは良くない。徹底して抗議。何週間も揉めて、結局、社長が謝罪した。仕事は戻らなかったが、キャンセル料が出た。そんなことがよくあった。

それを人から見ると「また、太田がトラブルを起こしている」となるのだ。つまり、おとなしく、理不尽に耐えればトラブルは起きない。悔しくても、我慢すれば平穏な日々が続くのだ。仕事もまたもらえるかもしれない。それを抗議するから「トラブルメーカー」と言われるようになった。つまり、僕自身は事件を起こさないのだが、理不尽な奴がいると、黙ってられなくなり、抗議する。それを「またトラブルを起こした」と思われたのだ。

そのために、いくつもの製作会社から追い出され、二度と仕事をくれないプロデュサーも多い。大手の会社から嫌われたことがある。が、踏みつけられているのに笑顔で仕事を続けることはできない。「太田はまっすぐだが、バカだ」と皆に言われた。

けど「トラブルメーカー」と名付けた先輩は意外に僕を理解。原因は他にあること把握していた。ただ、こうもいう。「普通、許せないことでも、相手が会社の人間とか、社長だと、仕方ないなと諦めるのに、お前は平気で抗議する。相手が強気に出たら、余計に対抗して行く。不思議な奴だよな?」



それから10年以上が経ち、今は仕事を依頼されるより、自身で企画し、僕が中心となってプロジェクトを進めることが多くなった。上からものいう奴がいなくなり、その種のもめ事はなくなる。が、こちらが依頼した製作会社や取引しているタレント事務所が理不尽なことを始めたら、対抗処置はとる。バカなことをするプロデュサーは追放し、いい加減な俳優は出入り禁止だ。

けど、それを「また、太田がトラブルを起こしているよ」とはもう言われない。ようやく、トラブルを起こしたのだが誰か? 理解される環境になったということか? ま、僕は言い出したら聞かないので、まわりが何とかしようとしてくれたりはする。ただ「***さんの顔を立てて我慢」とか、「***社とは今後も取引があるので穏便に」にはしない。映画を歪めたり、足を引っ張る奴はそこで終わりと思っている。

「監督。もう少し大人になりましょうよ?」と若いスタッフにも言われたこともあったが、それは譲れない。まわりにいい顔をしたり、無難に仕事ができることではなく。大事なのは素敵な映画を作ること。誰かの機嫌を取ることではない。それも次第に理解されて、今では大きな事件になることは少ない。が、「トラブルメーカー」で居続けることは大切だと思う。

おとなしく、我慢して、理不尽に耐えていても、次のステップには上がれない。大事なのは耐えることではなく、どうすれば問題を解決できるか? を考えることだと思う。喧嘩すればいいというものでないことも分かっている。が、じっとしても問題は解決しない。どんなときでも足掻き、声を上げ、抵抗することは大事。そんなふうに考える。



  

2015年05月20日 Posted by クロエ at 22:45Comments(0)思い出物語

「向日葵の丘」「思い出物語」ー夢を追うと失うもの。プロを目指すと心傷付けること。



30年ほど前。僕は横浜に住んでいて自主映画活動をしていた。今はもう製造されていないが8ミリフィルムを使って映画作り。映画研究部のような乗りで撮影をし、自主上映会。音楽でいえばバンド活動のようなもの。プロデビューを目指して、仲間と映画を作っていた。

仲間は専門学校の学生であったり、大学生だったり。映画好きが集まり、スタッフやキャストとして参加してくれた。が、皆、素人なので、いろんなトラブルや事件が続出。それを解決しながら1ヶ月も撮影するのは、なかなか大変だった。

真夏の太陽の下での撮影は過酷。ギャラも出ない、飯や交通費は自前。おまけに僕は当時から「本気」モード。趣味の延長ではなかったので、かなり現場はハード。だから、映画ごっこと解釈「楽しそー」と参加すると大変な目に遭う。だから、核となるメンバーは「将来は映画監督になる!」という仲間で固めた。

だが、撮影が1ヶ月も続くと、パニックになる奴も出て来る。主要メンバーの1人で大学生のA君は遅刻が増えるようになる。現場で取り乱す。何かにつけ、反対意見を出し、撮影の足を引っ張る。いやいや作業をし、注意すると激怒。あるとき、彼の不注意で20本近い撮影済みフィルムをダメにしてしまった。

製作費はバイトで稼いだわずかな額しかない。リテイクを含め、大きな打撃となる。そのために、撮影がすでに済んだ友人にも、もう一度来てもらい同じシーンの撮影をせねばならない。何日もの撮影が無駄になった。

A君は非常に聡明な映画マニアで、自身でも将来は映画の仕事がしたいという強い思いがあった。が、映画を「観る」と「作る」では大違いということを痛感。心の中で葛藤があったようだ。ここで投げ出すことは、映画を諦めること。だから、辞められない。が、撮影は辛く、やること、なすことが撮影の邪魔ばかり。だが、他の友人たちは、撮影が中断してスケジュールが遅れること、手伝いに来た人が迷惑することは考えず、A君の心配し始めた。

僕は趣味で映画をやっているつもりはない。プロを目指す仲間と共に真剣勝負で撮影をしていた。そのことは皆、理解していた。なのに「A君に優しくしてやれ。可哀想だ」と言い出した。つまり、みんなで仲良くやろうというのだ。「よりよい映画」を作るより「友達」を優先すべきというのだ。もし、これがサークル活動とか8ミリ同好会なら、その通りだ。が、プロを目指すための活動だ。

それで分かって来た。多くの友人たちは「プロを目指す!」といいながら、実際は「みんなで楽しくやりたい」というのが本音だったのだろう。決局、A君は途中で投げ出してしまった。そして、他のメンバーの何人かは「太田は冷たい」と批判するようになり、溝ができた。逆に、「太田は真剣だ。やはり遊びじゃなかった」とより協力してくれる友人もいた。



映画は完成。もりあがった。皆、「もう1本映画を作ろう!」といいだし、次はA君を一番庇ったB君が監督をした。が、またトラブルや事件が起きて撮影は難航。今度はB君がパニックなり。撮影は続行不可能になった。その後、誰も映画撮影をすることはなくなり、1人故郷に帰り、2人帰り。誰もいなくなった。僕は新しい仲間と出会い、自主映画活動を続けた。2年ほどして、A君と再会する。僕の8ミリ上映会に来てくれたのだ。彼はこういった。

「あのときは太田が許せなかった。けど、時間が経ち、自分が甘かったことに気づいた。あのときの仲間は皆、プロを目指すといいながら、その意味を理解してなかったんだ。結局、映画ごっこで楽しくやりたいというレベル。だから、みんな夢を諦めて国に帰っていった。でも、お前はまだがんばっている。当時の俺たちには分からなかったけど、本当に真剣だったんだな。本気でプロを目指してたんだな? そう思うとうれしくて、来れる義理じゃないけど来ちまったよ.......」


僕もうれしかった。というのも、あの頃は、やたら批判されていた。「太田は何様だ?」「たかが自主映画だろ?」「手伝ってもらっているという感謝がない」とか陰で言われていた。が、僕がするべきは、素晴らしい映画を作り、認められて、みんなでプロの世界に殴り込むこと。そう思っていた。プロを目指すということが、仲間の共通項だと信じていたから。

そうではなかったこと。後に知った。でも、A君と再会し、そのことを彼が分かってくれていたこと。うれしかった。もし、あれが青春ドラマなら、みんなで仲良く最後までがんばることがハッピーエンドだろう。しかし「プロを目指す」といいながら、嘘ではないが、それが憧れだった友人たちもいた。その辺で溝が出来、すれ違いが起こったということを理解した。A君はいう。

「プロを目指すというのは、仲良しごっこじゃない。だから、皆、ダメになった。あの頃はお前を恨んだけど、今は分かる。プロを目指すのなら仲良しごっこじゃダメだ。お前は間違ってなかったんだよ。今ごろ、あいつらも気づいていると思うよ。そして太田を応援しているはずさ。そしてお前なら必ずプロになれるよ....」

A君はそういってくれた。が、その後、彼と連絡が取れなくなり。今はどーしているか分からない。けど、きっとどこかで僕の映画を観てくれていると思いたい。そしてスクリーンに向かって、1人でこう呟いているだろう。

「だからいっただろ? お前はプロになれるって。嫌われても、冷たいって批判されても、大事なのは素敵な映画を作ることなんだぜ...」

そんな声が聞こえてきそう。だから、僕は前に進みたい。あのときの仲間の思いを込めて、感動を届ける映画を作るために。



  

2015年05月16日 Posted by クロエ at 22:32Comments(0)思い出物語

さて、1年前の今日は? 「向日葵の丘」クランクアップの日だ!③



いよいよ、クライマックスの撮影。



200人を超える市民俳優さんに参加してもらい、常磐貴子、田中美里、藤田朋子、らが出演。大掛かりな撮影がスタートする。



とにかく市民俳優のみなさん。大活躍! 皆、長時間、本当にがんばってくれた。下写真。よく見るとヒデキやゴローも!それぞれの写真をクリックすると大きくなるので、ぜひ。



ここは詳しく書けないが、この劇場シーンは3回泣ける。凄い場面。あとは言えないので映画を見てほしい。



「向日葵の丘」は8月22日(土)から品川プリンスシネマで公開。

東京がヒットすれば、大阪、名古屋でも上映できる。応援、よろしくお願いします。





  

2015年05月07日 Posted by クロエ at 12:09Comments(0)思い出物語

さて、1年前の今日は? 「向日葵の丘」クランクアップの日だ!②



この日は映画館内のシーンを撮影。とあるホールを使ってロケ。多くの市民俳優のみなさんに集まってもらい、観客役を演じてもらう。場内ではすでに別の撮影が進行中。市民俳優のみなさんはロビーで待機。



撮影の合間に監督(私ですが)やって来て、市民俳優の方々にご挨拶。待つこと数時間。いよいよ、観客席に入り、撮影が始まる。このシーンでは、3大メインキャストが総出演。常盤貴子、田中美里、藤田朋子。全員主役を貼れる大物女優。今回の映画でも3人が揃うのは2日間だけ。



その1日がこの日。とても大事なシーンでもあり、同時に撮影最終日でもあるので、スタッフも緊張! さ、いよいよ、場内での撮影が始まる。



  

2015年05月07日 Posted by クロエ at 12:02Comments(0)思い出物語

さて、1年前の今日は? 「向日葵の丘」クランクアップの日だ!①



最終日の午前中は、こんな場所で撮影していた。お天気もよく、子供たちや女子高校生も市民俳優として参加。クランクアップの日とは思えぬ、のんびりとした撮影をしていた。

ここまで撮り残しはなく、スタッフも安心していたことも大きい。が、この日の夜に最大のクライマックスを撮影せねばならないのに、ここまでのんびりしていていいのか?という不安もある。それでも僕自身も何だかのんびりしながら撮影。



緑の山山に囲まれた素敵なロケ地であったことも影響したかもしれない。ヤング多香子役の芳根京子さんも、大人多香子役の常磐貴子さんも、リラックしながらも、しっかりとした芝居を見せてくれた。



さ、移動して、夜はクライマックスの撮影。そこで撮影は終わる!1年前の今日はそんな日だった。





  

2015年05月06日 Posted by クロエ at 21:11Comments(0)思い出物語

1年前の今日は? 「向日葵の丘」映画館の撮影!



もう、あれから1年か〜。今年の連休は暑いけど、あの日は寒い上に雨が降ったりやんだり。
100人くらいの市民俳優さんが駆けつけてくれ、寒空の中、映画館に並ぶシーンを撮影。雨と寒さ。
なのに、みんな凄い熱気! 励まされたのを思い出す。



こちらは映画館内ロケ。入り口まで続く列。そのお客たちを、多香子(常盤貴子)&エリカ(藤田朋子)が迎えるというシーン。




下写真。一番大きいもの。市民俳優さんたち。台詞があるので緊張気味。
ヒデキ、ゴロー、ヒロミ、由真、ラン、スー、ミキと役名もある。大事な役だ。
みんな本当にがんばってくれたのを今も思い出す。ヒデキ、感激!







こちらは映画館の側面。この日はメイン女優3人が揃う豪華版。常磐貴子、田中美里、藤田朋子。全員主役を張る大女優! 




GWというのに寒く、雨が降ったり止んだりの夜だったが、100人を超える市民俳優の皆さんも凄い熱気。
こちらの方が励まされた。さて、これらシーンはどんなふうに映っているのか?





こちらの写真は物語終盤のシーン。詳しくは書けないが、中央の小さな女の子も市民俳優。オーディションで選ばれた。
なかなかの芸達者。この場面でも名演技を見せてくれる。





「向日葵の丘」は8月22日(土)から品川プリンスシネマにて公開!お楽しみに。



  

2015年05月05日 Posted by クロエ at 13:16Comments(0)思い出物語

1年前の今日は? 「向日葵の丘」病院ロケ!



昨年の今日は病院ロケか〜、大勢の市民俳優の皆さんに来てもらい撮影したなあ。



この日から田中美里さんも参加。現場でもスタッフが涙する名演をしてくれた。

常盤貴子、田中美里と2大女優が大活躍。



市民俳優さんも熱演。すごい1日だった。



  

2015年05月04日 Posted by クロエ at 13:26Comments(0)思い出物語

「向日葵の丘」LA時代の思い出、総括編




昨日のランチを食べた店。とてもアメリカ的で、LA時代を思い出した。その思い出をFacebookに綴ってしまった。

1985年から1991年までの6年間。僕はロサンゼルスで暮らした。中学時代からの憧れであったハリウッド。その町で学び、生活してみたかった。

アメリカ映画を観て、アメリカのドラマを見て、アメリカの音楽を聴き、ハンバーガーとホットドッグが好きな僕だが、アメリカでの生活は決して楽ではなく。悪戦苦闘の連続で、楽しいとはいい辛いことも多かった。




それでも学ぶべきことは多く。日本ではできない経験をすることができた。今、映画監督という仕事をしていて、ものを考えるとき。当時の経験が役立っていることを最近は感じる。

20歳を超えてから留学したので、英語力で苦戦した。もう少し早く行けばもっとネイティブな英語力が着いと思うと後悔する。それとも、そんな歳からでもアメリカに行ったので、そこそこ英語が話せるようになったと思うべきか?

アメリカが正しく、日本が間違っているとかいうことではない。どちらも問題は多い。しかし、比較することで、いろんな意味が分かってくること。痛感した。日本では当たり前だと思っていたことが、非常識だったりすることも数多くあった。




ロスアンゼルス生活6年目のとき。このまま、この町で仕事をしようとか? それとも日本に戻ろうか?と考えた。LA生活。慣れるととても快適。人が暮らすという意味で、この町は本当に素敵だ。

が、僕の目標は映画を作ること。日米どちらでも、大変な夢だが、当時は日本がバブルで大きな可能性があった。アメリカは不況で映画人も日本の企業から金を引き出すことを考える時代。それなら日本人である自分なら、可能性があるだろう。と帰国。

その直後にバブルが弾け、その後、アメリカがコンピューターバブルで隆盛となる。それでも5年かけてシナリオライターになり、その後、映画を監督した。2作目の映画「青い青い空」がLAの映画祭に招待されたのが2011年。

続いて2013年にも「朝日のあたる家」が招待。20年ぶりに2度、LAを訪れた。そのときの経験がベースになり「向日葵の丘」は生まれた。時代は変わり。季節は流れ。僕も50歳を超えてしまった。

でも、大人になったいう実感はなく、今もLAに憧れていた10代と変わっていない気がする。



  

2015年04月09日 Posted by クロエ at 10:40Comments(0)思い出物語

今から5年前



2010年

今から5年前

「青い青い空」公開時。

48歳?



  

2015年03月08日 Posted by クロエ at 17:42Comments(0)思い出物語

僕の前作「朝日のあたる家」が英語圏のニュースになった動画



「朝日のあたる家」が英語圏のニュースになった動画





  

2015年02月12日 Posted by クロエ at 11:32Comments(0)思い出物語