「向日葵の丘ー1983年夏」監督日記 



片目を失っても撮影に全力投球するのが映画監督の使命。

内緒にしておこうか?とも考えたが、何人かの関係者が気づいて密かに心配しているので、詳しく報告しておく。2年ほど前から左目が見辛くなっていた。眼科に行くとある病気だという。手術をした方がいいと言われたが、その頃はまさに「朝日のあたる家」の撮影準備でてんやわんやの時期。手術日を決めた日が撮影中になるとまずい。いや、撮影でなくても、本読みでも、衣裳合わせでも、僕の都合でNG というのはいけない。そんなことで先延ばしにしていた。

左目だけではなく、まだ問題のない右目も別の病気だと診断された。左目の進行はゆっくりだが、右目は急に来ると医者から言われた。突然に視力が落ちて目の毛細血管が破けて出血。目から血が溢れ、失明する可能性がある。が、「朝日」撮影終了後はすぐに編集、完成後はロサンゼルスの映画祭、地元での完成披露試写会、そして宣伝。全国公開。舞台挨拶ツアーと続いた。もし、手術日が先に決まっていたために、あとから決まった**市の公開初日舞台挨拶に参加できないというのは許されない。僕が行くことで、多少でも観客が増えるのだから。欠席はできない。そんな訳で「朝日」の映画館公開が終了するまで、手術の予約をしないことにした。

だが、夏が来て、秋が来て、次第に左目の視力は落ちて行き、ほとんど霞んでしか見えなくなった。そんなことを言うと皆、心配するので内緒。それでも「あれ?」という友人たちが出て来た。その内に「向日葵の丘」の製作が決まる。「朝日」の宣伝、舞台挨拶ツアーと重なり、超過密スケジュール。撮影は5月となる。この頃になると左目はほとんど見えず。片目のジャック状態。右目も急に視力が落ちて見えなくなる可能性がある。もし、撮影中にそうなったら? 何とか、撮影までに手術せねばと考えた。

ところが、やることは山積み。「朝日」の舞台挨拶ツアー。「向日葵」の準備。どちらも僕がいないとストップしてしまう。で、考えた。もし、このまま手術が遅れて左目が手遅れになっても、それは仕方ない。ここで僕が休む訳にはいかない。ただ、撮影中に右目まで見えなくなると、大変なことになる。演出ができない。とは言え、撮影が近づくにつれて、やることは増えて行く。時間が足りない。より良い作品を作るには準備が大事。どうするべきか?

毎回、遺作。そう思ってかかる。だから、これで手術が遅れて左目が見えなくなっても構わないと思った。そのことで準備を遅らせたくない。少しでも良い作品にするため、全ての時間を自分の為ではなく映画のために使いたい。ただ、撮影中に両目が見なくなるというのはマズい。そこで、僕の映画の全て撮影してくれており、今回もカメラを担当してくれるSさんにだけは、そのことを話しておこうと考えた。だが、もし、撮影中に目が見えなくなるかもしれないことを伝えても無意味なことに気づく。盲目の監督なんてどーしようもない。座頭市のように音だけで判断するか?それは無理。事実を伝えても彼に余計な心配をかけることになるだけだ。

すでに左目が見えず、右目も突然見えなくなること。結局、伝えなかった。が、撮影後に彼から言われた。「目。大丈夫ですか?」何で分かった????撮影中におかしいと気づいたという。凄い観察力!彼が腕のいいカメラマンというだけでなく、監督である僕の健康まで心配してくれていたことに胸が詰まった。そして、やはり事前に話さなくてよかったと思う。彼には心配をかけず、素晴らしい映像を撮ることに専念してもらうことが大事なのだ。

そこで初めて事情を話し、その数日後に眼科を訪ねた。医者から酷く怒られた。「なぜ、こんなになるまで来なかった!」だって、診断を受けて、即手術!と言われたら困るから........そんな訳で徹底した検査を受けることになる。前回、診療を受けてから気づくと2年が経っていた。その間に2本の映画を撮影した。失明しても後悔はしない。

検査の結果。左目はもう光を感じるだけ。右目も「いつ失明してもおかしくない状態」と言われ、また厳しく叱られた。「今日、ここに来る途中に失明していてもおかしくないんだよ!」そう言われ、その日の内に緊急手術。幸いにも成功。が、問題は左目。今も検査を続けている。果たして手術をしてよくなるものか?どうか?まだ分からない。おまけに手術が込み合っていて、夏まで待たねばならない。

医者はこう言った。「いくら仕事が大事とは言え、目が見えなくなったら元も子もないよ!」けど、自分の目のために映画準備が疎かになり、致命的な問題が起きることの方が怖い。目は2つあるけど、映画は今回駄目だから次がんばるでは済まない。だから、毎回、遺作のつもりで全力でかかる。でも、まあ、ひとつ間違っていたら撮影中に右目も見えなくなる可能性もあったのだ、、、、撮影中に監督が目から血を流したら、みんなビックリするだろうなあ。。。。

なんて笑い話にはならない。が、僕が撮影前に手術を予約したとして、もしかしてその日が「本読み」の日になったかもしれない。俳優たちのスケジュールはタイト。僕のために本読みが中止になり、そのまま撮影になったときに、俳優たちが戸惑い、いい芝居ができないということだってあり得る。スタッフとの打ち合わせができず、そのときに僕が伝えられなかったことが原因で大きなトラブルになることもある。病院も手術予定がいっぱい。両者の都合のいい日に手術はできない。だから、撮影が終わるまで手術はしないと決めた。

左目が見ないままの撮影は厳しいものがあったが、幸い右目は撮影中に失明することはなく。無事にクランクアップした。あとは、夏の手術がうまく行き、完成試写会のときに両目で「向日葵の丘」を見れることを願うばかりだ。作品が遺作になるのはいい。でも、目が見えなくなり、生きていながら自分の映画が見れないのは辛いものだ。ま、片目でも見れればOKだと思うが。。。

以上、報告まで、薄々感じていた方。
心配してくれた方。申し訳なかった。

でも、編集は片目でできるので大丈夫。
がんばります!


  

2014年05月28日 Posted by クロエ at 09:51Comments(0)撮影を終えて

「向日葵の丘」時代は変わるー出会いと別れ



今回の映画。舞台となるのは1983年。

当時、僕は21歳。自主映画作りをしていた。8ミリフィルムで映画を作り、宣伝、上映会。業界の人たちに認められてプロデビューを目指す。80年代後半のバンドブームのようなもので、世間も注目。多くの若手がチャンスを掴んだ。が、そんな絶好の機会は長く続くこともなく、業界では「8ミリ映画をやっていたくらいでは、プロとして通用しない!」という意見も増えて行き、やがて自主映画出身者への扉は閉ざされて行った。

僕はそんなビッグウェーブに乗り遅れた1人。

「いや、まだまだ、俺はがんばるぜ!」という友人もいたが、ある歌を思い出す。ボブディランの「時代は変わる」。そう、自主映画ムーブメントは終わり、時代自体が大きく変わろうとしていることを感じた。時代の波が変わるのだから、僕自身も舵を切らなければ。。。。そんな予感がしていた。実際、日本は間もなくバブル時代に突入する。

83年に「バイバイ・ミルキーウェイ」

という青春ファンタジー8ミリ映画を撮り、上映会を終えたあと。僕はアルバイトを始める。「もう、日本で8ミリ映画を続けていてはいけない!」そう感じたからだ。そして、ロサンゼルスの南カルフォルニア大学に留学(USC)。映画科を希望していたが、語学力がないので、まず英語コースからスタート。もちろん、LAで勉強したから、何か大展開がある訳でもない。ハリウッドで就職できるものでもないのだが、変わり行く時代の中で、昔からの憧れである映画の聖地で勉強することに意味があると強く感じたのだ。

その後、USCの映画科に合格。

憧れのジョージ・ルーカスらの後輩となり、大学生生活を続けていたのだが、5年ほど経つと、また大きく時代が変わることを感じた。このままアメリカにいても何も変わらない。そう思えて、1年後に帰国。日本でシナリオライターを目指しながら、アルバイトを始めた。実際、日本ではバブルが崩壊。アメリカはコンピューターバブルで不況を打破。復活して行く。再び時代が大きく動き始めた。

「あ!時代が変わる。このままじゃいけない」

と感じるとき、舵を切る。最終的な目標はいつも同じだ。映画監督になり、多くの人を感動させる映画を作ることなのだが、時代の波が変わるときには、航路を変えることも大切。ときには荒波の海であっても、その航路を選ばなければならない。理由はよく分からなくても、自分が感じたことを信じて進むことで、結果、大きな展開をしてきた。

帰国してもう、23年。

「時代は変わる」と感じることがしばらくなかったが、今回の「向日葵の丘ー1983年夏」を撮る前から、久々に「何かが変わる?」という感覚が蘇って来た。時代が変わるのか? 日本が変わるのか? 僕の環境が変わるのか? 何が変わるのか?まだ分からないが、大きな何かが変わろうとしている。ただ、時代の変わり目はいつも寂しい。

長年の友人との別れ、

住み慣れた場所を去り、環境が大きく変わる。引っ越しをするからという意味ではない。時代の変わり目にはいつも、大切な人との別れが訪れる。運命が引き裂くとしかいえない別れが訪れる。新しい物語の始まりは、終わり行く物語で共に戦った、或は、助けてくれた仲間が必ず去って行く......。

それが「時代は変わる」ということなのか? 時代を超えるためには犠牲がつきものか? 共に夢見た仲間をおいて行くしかないのか? そして、いつも僕はそれを見送るだけだ。ただ、新しい出会いもある。これまでに出会わなかった人たちが登場し、大いなる力を貸してくれる。応援してくれる人もグンと増える。それは本当にありがたく、うれしいことなのだが、新しい船には乗れない友のことを思うと、心が引き裂かれる。

だが、留学時も、帰国時も、その悲しみを超えて次のステージに上がり、新たなる戦いがスタートした。そう、たぶん、今回も次なる戦いが待っているのだ。多くの新しい仲間と、同時に古くからの友人たちと共に挑む戦い。希望を伝える映画作りをせなばならない。時代の涙を拭き、前に進まねばならない...。


  

2014年05月27日 Posted by クロエ at 16:34Comments(0)撮影を終えて

「向日葵の丘」遺作と思うことでベストの作品を



毎回。遺作!

と思って映画作りに挑む。次はない。だから、これで完全燃焼する。それが僕の映画作りだ。次を考えると、いろんな人に気遣いをしてしまう。「こんな演出したら、次からスタッフは誰も参加してくれないかも?」「***さんの意見も取り入れないと、今後は応援してくれないよな?」次を考えると、そんなことが心配になり結果、次のために今を自己規制してしまう。

多くの監督はそんなふうに関係者に気遣い、

今、自分が本当に願う最高のものを作るよりも、次も仕事ができることを優先。いろんな人の意見や指示を受け入れる。でも、それでよりよい作品になることはまずない。多くの場合は作品レベルの低下に繋がる。「みんなで意見出し合って、仲良くやればいいじゃん!」と言う人もいるだろう。が、以前にも書いたが、歌でも、映画でも、作品は1人のクリエーターの思いを、ダイレクトに伝えることで観客は感動する。いろんな人の意見を取り入れたものは、メッセージが弱くなり感動に繋がらないのだ。

その意味で僕の映画。

多くの人が評価してくれたのは、「我がままだ!」とベテランスタッフによく言われたが、自分の思いを曲げずに映画を作りをして来たからだろう。でも、次を考えると本音として嫌でも「じゃあ、今回は***さんの顔を立てて、彼のアイディアを取り入れましょう」「お世話になっている**社長のところの俳優を3人、キャスティングしよう」というような妥協をしたに違いない。シナリオがおかしいと言われれば、明らかにアホとしかいいようのない関係者でも満足するように直したかもしれない。

が、面白いもので、次を考えて、まわりを気遣い、

いろんな意見を取り入れて映画を作った友人監督。その1本で終わってしまった。関係者は皆、それぞれに勝手なことをいい、その監督は調整係のように意見をまとめ映画にした。なのに、彼等は満足しなかったという。要は最大公約数的な作品になっていたのだ。一応、意見は反映されている。でも、映画として魅力ない。誰もがそう感じた。大手企業が作った映画がいい例。いろんな人が口を出すと、そうなってしまう。


一方、遺作!と決めた僕の映画は、

シナリオ、キャスティング、演出、編集。全てに対して好きにやった。もちろん、いろんな人がいろんなことを言い、圧力を掛けて来たり、脅したり、人参をぶら下げたり、様々な手を使い、自分たちの意見をごり押しした。が、どうせ遺作。このあと死ぬんだから、しがらみもないし、最後は好きにやらせてもらおう!てな思いで、全員が敵にまわったこともあったが、思いを通した。次はなくていい! 遺作だと思わなければ、そこまで出来なかっただろう。でも、結果として評価される作品になった。すぐには展開しなかったが、次への布石になり、数年後に2作目を撮ることになった。

今は多くの関係者が僕の作品を理解してくれており、

あれこれ意見をいう人はもういない。「太田の思うようにやらせて上げよう」という仲間たちが支えてくれている。本当にありがたい。ただ、「青い青い空」のあとは過労で倒れ、半年間寝たきり生活を送った。1人で7人分くらいの仕事を数年に渡ってするからだ。覚悟としてではなく、本当に遺作になりそうになった。その危険性は今回もある。前作「朝日のあたる家」の準備を始めた2011年秋から休みなく、翌年の撮影。公開。宣伝。全国舞台挨拶ツアー。それとダブって「向日葵の丘」準備。年が明けて撮影準備。そして撮影と2年半ほど休みなし。先日も病院で検査を受けたが、果たしてどうか?

けど、これだけは言える。

次も仕事ができるように今回は我慢しようでは絶対に駄目。先にも書いたが結果、次には繋がらない。今、目の前にある仕事を全力でやることで、結果として次に繋がる。「向日葵の丘」の戦いは第3部編集へと突入している。作業を続ける!


  

2014年05月26日 Posted by クロエ at 07:46Comments(0)撮影を終えて

「向日葵の丘」映画は「悲しみ」を「希望」に変える仕事。



今回の映画。舞台は1983年。

同じ年に、あの尾崎豊がデビューしている。ときどき思い出す彼の歌がある。
「17歳の地図」のような大ヒット作ではないが、アルバム「Birth」の中に「エターナル・ハート」というあまり有名ではないが素敵なナンバーがある。
僕が大きな問題で行き詰まったとき、悲しみにぶつかったときに、何度も聴いた歌だ。

「人はただ悲しみの意味を探す出すために、生まれてきたというのか?」

という一節がある。歌を聴きながら、いつも、その部分に来ると胸を突き刺される。
「悲しみの意味を探す出すため」そう。生きていると、うれしいことより、悲しいことの方が多い。
感動することより、傷つくことが多いのではないか?

僕の高校時代は絶望の連続だった。

ただ知識を詰め込むだけの情熱のない教師たち。
成績でしか友達を判断しない冷めた生徒たち。
管理しやさを追求するだけの校則。
のちに尾崎豊が歌詞にしたような世界。
「心を捨てろ捨てろ」という場所だった。
僕は学校の授業よりも、映画とレコードから多くを学んだ。
でも、人生の多くの疑問を解決できぬまま、卒業した。

その後、映画監督を目指して横浜で暮らし始める。

そこで同じ夢を追う仲間たちと出会った。
思いを分かり合える存在と出会った。
8ミリ映画を撮り、監督デビューを競った。
しかし、仲間たちは次々に、現実の壁に阻まれ、傷つき、羽根折れて、消えて行った。
小さなトラブルに、些細なすれ違いに、親たちの無理解に、ほんのわずかな偶然に心破れ、落ち込み、去って行った。

どんなに励ましても、どんなに説得しても、

仲間たちは心を閉じたまま。夢を諦め姿を消して行った。
大人たちが嘲笑する。「世の中、甘くないからね!」と。
でも、そんな大人たちは決して夢見ることもなく、ただ、現実を受け入れているだけ、努力もせず、怠惰に生きるだけの人たち。違うだろ? 
あなたたち大人に、彼ら彼女らを笑う資格はない! 
でも、そんな彼らに突きつける言葉を当時の僕は持っていない。
強い無力感に苛まれた。

僕は6年の留学生活を経て帰国。

アルバイトをしながら、5年かかってシナリオライターになった。
作品のテーマはいつも「子供たちに伝える大切なこと」だ。
「どうすれば子供たちは幸せになれるのか?」「どうすれば、夢を実現できるのか? 
どうすればハッピーになれるのか?」だ。
そんな僕の元にいつしか若い俳優たちが集まって来た。
あの頃の友人たちを思い出す。同じように、夢を追い、自分の可能性を探していた。
そんな彼ら彼女らを応援した。
だが、やがて、昔の仲間と同じように、大きなの壁にぶつかり、怠惰な社会に蝕まれ、親たちの理解もなく、夢破れて、現実の海に沈んで行った。

そのたびにあの歌を聴いた。

「人はただ、悲しみの意味を探し出すために生れてきたというのか?」無力感に苛まれた。
現実の壁に潰されるのならまだ分かる。
大いなる可能性を持ちながら、消えて行った子がいる。詰まらぬことに囚われて、自分で自分の首を締め、夢を壊してしまった22歳の女の子もいる。
どんなに応援しても、手を差し伸ばしても、彼女は無言で、声を上げずに深い現実の海に沈んで行った。
なのに、このときも、僕は、何もできなかった....。
何ヶ月も、心から血が止めどなく流れた.......。

夢を追いかけた多くの仲間たち、

俳優を夢見た若い友人たちも、もういない。
僕だけが生き残り、映画監督となり、作品を作り続けている。
今回の映画「向日葵の丘ー1983年夏」その頃の友人の思い出を重ねたエピソードがある。
現実の中では悲しみでしかない事実も、映画にすることで、物語となり、今、現在、夢観る子供たちの支えになるはずだ。
「悲しみ」を「希望」に繋げることができる。
それが生き残った僕の使命のはず。
そして誰にでも、それぞれに出来ることはある。
諦めてはいけない。



  

2014年05月24日 Posted by クロエ at 22:23Comments(0)撮影を終えて

「向日葵の丘」僕が映画を作る訳



今朝、書いた記事。「監督がPを兼任する理由」。
そのあと、移動中のバスで考えた。
なぜ、僕は監督業をしているのか? そんなことを考えていた。
そう、学生時代。1970年代から1980年代にかけて、僕は映画ファンで、テレビで映画館で、名画座で映画を見まくっていた。

当時はまだレンタルビデオも、DVDもなく。見たい映画を見ることは大変。
何年も待って名画座で見るという感じ。そんな映画に何度も助けられた。
特に絶望の連続だった暗黒の高校時代は、多くの映画に支えられた。

スティーブ・マックイーンに、チャールズ・ブロンソンに、ジェームズ・コバーンに、応援された。
スピルバーグに、ルーカスに、コッポラに励まされた。
その内に自分でも映画を撮りたい!と思い、8ミリカメラを手に学生映画を作るようになった。
それが高じてアメリカ留学、そして、帰国後は日本で映画の仕事をするようになるのだが、、、、

しかし、映画界で仕事するようになってからも失望の連続だった。
誰が見るの?というような作品を平気で作り。ピンハネに次ぐピンハネ。制作費の横領。誤摩化し。嘘。
情熱もなく、ただ目先の金を稼ぐためにだけ仕事する人々。
生活のためだから仕方ないよ・・・と、情熱もなく働く先輩たち。
古い習慣を頑に守り。合理性のない方法論で、お茶を濁すような作品を作り続ける老人たち。

そんな世界で仕事をしていて、絶望。多くの仲間が去っていった。
が、僕は決意する。「我慢して、耐えて、つまらない仕事をするのも大変。
それなら本当にやりたい仕事をしよう。
どうせ大変なのなら、本当にやりたいことで苦労しよう」そう考えて、自分で制作費を集めよう、映画監督を目指そうと思った。
学生時代に見た作品のような、「明日もがんばろう!」「負けずに生きていこう!」そんな感動と涙が溢れる映画を作ろうと思った。

諦めるのではなく、そんな思いに至ったのは学生時代に観た映画の影響だろう。
「ロッキー」「がんばれ!ベアーズ」「大脱走」「明日に向かって撃て!」諦めなければ夢は適う。
必ず答えがどこかにある。映画から学校では教えてくれなかったこと、たくさん教わった。
そんなメッセージを今度は僕が若い世代に伝えるのだ。

いろいろあったが、5年がかりで制作費を集めて初監督映画を完成させた。
それから9年。4作目の「向日葵の丘ー1983年夏」を編集中。今も変わらぬ思い。
映画を観た観客が「明日もがんばろう」と思う作品。忘れていた大切なものを思い出す映画を作りたい。
でも、魑魅魍魎が蠢く業界だ。それを続けるのは簡単なことではない。
だから全てを捨ててかかる。人生賭けて映画を作る。名誉でも、金でもない。

そんな思いでかかっている。そうすれば、きっと今回も伝わる作品ができるはずだ。



  

2014年05月19日 Posted by クロエ at 17:49Comments(0)撮影を終えて

「向日葵の丘」撮影が続いている夢



撮影が終わって、そろそろ10日が経とうとしているのに、未だに撮影を続ける夢を見る。
それも悪夢ばかり。
朝、撮影しようと食堂に行くとスタッフが誰もいない夢とか、撮影をしようとしてもキャストがすでに帰京したと言われる夢。

わーーーと思って起きると夢だった....なんてことが今も続く。
戦場から帰った兵士が戦場に戻った夢を見てすぐ目が覚めてしまう....という話をよく聞くがそれと同じ感じ。
いよいよ編集も始まるし、当分、悪夢は続くのか?


  

2014年05月19日 Posted by クロエ at 07:32Comments(0)撮影を終えて

向日葵の丘”撮影終了ー帰京して、ちょうど1週間。



毎度のことだが、撮影が終わってしばくらは緊張感が解けず、元気なまま。

それが1週間ほど経つとどっと疲れが出て、ダウンすることがある。

今回もその時期が来たようだ。

でも、休養の時間はない。

ようやく、片付けとうが終わり(でも、ご挨拶とお礼の挨拶ができていないところもある)

編集作業に入らねばならない。

毎回、こんなふうに休みなしに仕事が続くの映画が完成してから過労でダウンし、医者から”休まないと過労死するぞ!”と叱られるのである。

今回は倒れないようにがんばろう!

でも、全力で?


  

2014年05月18日 Posted by クロエ at 22:44Comments(0)撮影を終えて

上杉パパの向日葵の丘撮影体験記

「向日葵の丘」行かねばならない場所2 




 結局、こんなところにも行かねばならなくなった....

 心配をかけるので内緒にしようか?とも思ったが、伝えた方が安心する人もいるので書いてみる。
毎回、映画が完成すると、疲労困憊で、過労と診断される。
それ以前に医者から何度も”休みを取りなさい!でないと本当に死んでしまうよ。過労死するよ!
”と言われながら仕事をする。でも、なぜか、完成までは倒れず。公開されてから倒れる。
”青い青い空”のときは半年間も、寝たきり生活となった。
4年間。休みなしに7人分くらい働いたので、その分をまとめて休養を強制的にとった形だ。

その事件以来、いろんな人に心配され、
”健康に気をつけてね!””食事に注意しろ””病院へ行け!”と言われて来たが、
2年前に倒れてから、また1日も休みなしで仕事が続いている。
だから、毎回、遺作になるかも?と言われるのだが、ヘンに病院にいって悪いところが分かるとマズいので、
行かないようにしていた。
が、今回。まだ、これから編集作業が2ヶ月ほど続くというのに、ある理由で、どーしても病院で精密検査を受けねばならないことになった。

というか、受けて来た。ロングストーリーなので、またいつか説明するが、どんな結果がでるか?不安ではある。
映画監督業なんて、命削って作品を作るんもんだからねー? 
黒澤明監督だって、撮影が終わると毎回、入院したというし。どこか悪くなるものだ。あとは結果待ち?




  

2014年05月17日 Posted by クロエ at 19:22Comments(0)撮影を終えて

「向日葵の丘」行かねばならない場所




 後片付けやお礼参りだけではない。

 行かねばならないことがある。

 くわしくはいずれ。




  

2014年05月17日 Posted by クロエ at 19:17Comments(0)撮影を終えて