「向日葵の丘ー1983年夏」監督日記 地方を舞台に映画を撮り続ける理由

地方を舞台に映画を撮り続ける理由
僕が20代前半だった、1983年。まさに映画「向日葵の丘」の舞台となった年。
あの頃は本当に日本映画が駄目で、若い人たちは皆、アメリカ映画しか見なかった。
そんな時代に彗星のように登場したのが、大林宣彦監督だ。
これまでの日本映画とは全く違うテイストとスタイルに感動。”
これこそが俺たちの世代の映画だ!”と多くの若い世代が支持。僕もそんな1人。
80年の「ねらわれた学園」81年の「転校生」と注目していたけど、83年に公開された「時をかける少女」がとどめ!
大きな影響を受けた。
その後、僕は駄目な日本映画界に見切りをつけ、大好きなアメリカ映画を学ぼうと留学。
「スターウォース」のG・ルーカス監督らが卒業したUSC(南カルフォルニア大学)映画科に留学する。
いろいろと感じることあった。そしてアメリカにいて一番学んだこと。
それは大嫌いだった日本の田舎の風景がどんなに美しいものであったか?
憧れていたカルフォルニアのビーチ。ニューヨークの摩天楼も、それはそれで素晴らしいけど、日本の田園風景も、決して引けは取らない素敵なものであること痛感した。
そして、ハリウッド映画にはずっと憧れていたけど、もし、ここで映画が撮れたとしたら、何を撮るべきか?考えた。
Gルーカスは1960年代を舞台にした「アメリカングラフィティ」という素晴らしい青春ものを作った。
ウッディアレンはニューヨークを舞台に「マンハッタン」「スターダストメモリー」という名作を監督した。
じゃあ、僕がLAで、NYでそんな映画が作れるか?
ノーだ。ルーカスはカルフォルニアのモデストと小さな町で生まれ育ち。その町を舞台に「アメグラ」を監督。
アレンはNY育ち。だから、臭うようなあの街が撮れる。
アメリカの監督たちに憧れている内はいい。でも、アメリカで勝負するなら、彼らはライバル。
そこで生まれ育った監督を凌ぐ作品ができるのか?そんなことを考えた。
僕は何を作るべきか?
当時、日本はバブル景気。アメリカは不景気。ハリウッドも日本の企業に買われる時代。
USCの映画科を出た先輩が就職もできず、大学内でアルバイトをするような状態。
あるアメリカ人は僕を通して日本の企業にアプローチ。映画の資金を引き出せないか?と相談してきた。
アメリカは行き詰まっていた。そんなこともあって、一度日本に戻ろう。そして、自分が撮るべきものを考えることにした。
が、帰国したとたんにバブルは弾け。今も続く不況が日本を覆う。
新人監督への道は険しく、映画産業自体が崩壊しそうなくらいだった。
アルバイトをしながら5年がかりでシナリオライターになり、どうにかありついた仕事も酷いもので、ブラック企業も裸足。
生活もできない額のギャラなのに、長期間、苦闘の連続。
同じ苦労するなら、自分で製作費を集め。監督してやる!ととんでもないことを考えた。友人たちから「無謀だ」「無理だ」「不可能だ」と言われた。
が、問題はそこではない。何をどこで撮るべきか?
それが問題だった。
留学中ことを思い起こした。
ルーカスがモデストで「アメリカングラフィティ」をアレンがニューヨークで「スターダストメモリー」を撮るのなら、僕も古里で青春映画を撮ろう。
それは憧れの大林宣彦監督の影響もあったと思う。
大好きな「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」も大林監督の古里・尾道で撮られたものだった。
古里を舞台にしたファンタジー。僕が撮るべき映画だと感じる。
LAのサーフィン映画ではなく、NYの摩天楼物語でもなく。和歌山県のファンタジー。
それならルーカスにもアレンにも負けない。タイトルは「ストロベリーフィールズ」とした。
だが、完成までは怒濤のような事件とトラブルの連続。
そのことは「監督日記」に詳しく書いた。
http://t-ota.blog.so-net.ne.jp/
僕が4歳まで住んでいた和歌山の町。そこで繰り広げられる悲しき幽霊たちの物語。
シナリオを書き、製作費の出資を求めて営業を続けた。
ある会社が大林宣彦監督が監修して、尾道を舞台にするなら製作費を出すという。
和歌山への思いもあるが、尾道で撮れるのも嬉しい。まずは、尾道で成功してから和歌山で撮ろう。
安易にそう考えて、10代のときから憧れていた大監督と対面することなる。
ところが大林監督はこう言う「太田君。あなたは尾道で撮るべきではない。和歌山で撮るべきだ!」
大監督にそう言われては、会社も企画を進められない。尾道ロケは取りやめ。
でも、大林監督の思いも知る。「憧れの尾道ではなく、自分が生まれた街。古里でこそ、思いが籠るんだ。
デビュー作ならそれが大事だよ」と伝えたかったのだ。
「思い」がどれだけ大切か? それはのちに痛感するのだが、先の会社は撤退。
また、ゼロからのスタートとなる。
数ヶ月後、大林監督から連絡。「新作ー理由のメイキングスタッフを探しています。太田君にお願いしたい」
それは仕事の依頼ではなく、これから監督デビューしようとしている僕に、大林組の映画撮影を現場で見つめるチャンスをくれたということ。
「その全てを見て経験して、自分の作品に生かしてほしい」という大林監督の愛情だった。
「理由」の現場を体験させてもらったあと、さらに1年以上かかり、別の会社を探して出資してもらい、和歌山でも寄付を募り、撮影にたどり着く。
美しい自然の中で、都会では絶対に撮れない、心癒される風景の中で、10代のキャストによる物語を撮影。
東京でも地元でもヒットした。同じように自然が溢れる田舎街を舞台とすること。僕の映画の定番になった。
浜松、湖西、そして今回の島田。
皆、どこにでもある田舎街だが、美しい自然に囲まれている。
余談だが、大林監督はそのとき以来、様々な形で応援してくれている。
それが昨年、ロスアンゼルスで開催されたジャパン・フィルム・フェスティバルで、大林監督の「この空の下」と僕の「朝日のあたる家」が同日に招待上映され、師弟対談までやらせて頂いた。
憧れの監督と同じ舞台に、それもロスアンゼルスで。
感無量だった。
話を戻す。
ニューヨークでも、ロスアンゼルスでもない。日本の片田舎の風景がどれだけ美しいか?
どれだけ心癒されるものか?留学中の経験を生かした。
僕と同じように、多くの人がまだそれに気づかず、都会や外国に憧れている。
でも、自分のまわりにある、見慣れた風景こそが、世界に誇れる素晴らしいものであること。
僕が伝えたいテーマのひとつとなった。

2014年05月31日 Posted by クロエ at 12:25 │Comments(0) │監督日記
「向日葵の丘」監督業に専念できない理由?
.
毎回このブログには、いろんな方がコメントをくれる。でも、そのおひとつおひとつにお返事。お礼する余裕がない。メッセージやメールでも、「***会をするのでぜひ」「****に署名お願いします」という連絡をもらう。が、それがどんな会で、何に対する署名なのか?をリンクをクリックして読む時間がない。本やCDを贈ってくれる方もいるが、やはり余裕がない。おまけに片目だ。
何より今は「向日葵」関係で精一杯。
監督業のみなら撮影が終わったので一息だが、編集を担当しているので、そちらを進めねばならない。そしてそれ以外の様々なことをやらねばならない。というのは、僕は監督、編集だけでなく、プロデュサーも担当しているからだ。源泉徴収の納付、給与振込、使用料の支払い等もあって役所や銀行に行かねばならない。撮影後の清算やあと始末。苦情の処理等。
これらは半年先にやる!
という訳にいかないものばかり。といって、それにばかり時間を割いていると編集が進まない。実際進んでいない。編集は「霊」が降りて来なければならない作業。午後1時に人に会って、午後2時から編集。午後3時に銀行なんてことはできない。
「それならプロデュサーを雇って、やらせればいいじゃん?」
という人もいるだろう。だが、そのPというのが曲者が多い。前にも書いたが彼等のためにどれだけの事件が起こるか? 全部とは言わないが、多くのPは金にルーズ、トラブル解決をする仕事なのに、自ら事件を起こすことの方が多い。あげくは僕が製作費を集め、映画を企画し、彼を雇ったのに「太田監督に映画を撮らすために、がんばりましたよ。あっはは!」などと自分が全てをお膳立てしたかのように言い、関係者に敏腕Pであることを売り込む。(そうやって、別の仕事を取ろうとするのだ)そのくせ、ルーズな行動が多く。多くの関係者に迷惑をかける。そんなトラブルを僕があと始末をして、迷惑をかけた人たちに謝罪してまわる。毎回そんな感じだった。
その後、僕自身もPの肩書きを着けるようにしたが、
他の「P」たちが同じことを繰り返したので、前作からは僕のみがPとなり、支払いから後始末までP業を担当している。(今回はプロデュサー部の補佐的存在はいるが、製作費、人事については僕が担当。最高責任者という形だ)実はそれが一番機能的と痛感した。確かに時間と手間はかかる。
でも、Pが起こすトラブル
(あとになってギャラの額を変えて、スタッフを怒らせる。不必要な出費をして製作費をオーバーする。多額の製作費を抜いて自分のものにする等)がなくなったと思えば、全然OKという気はしている。とはいえ、編集作業も進めねばならないので、このままでいいとは言えない。友人は言う。「女性Pと結婚すればいいんだよ!」でも、それが一番大変かもしれない?

毎回このブログには、いろんな方がコメントをくれる。でも、そのおひとつおひとつにお返事。お礼する余裕がない。メッセージやメールでも、「***会をするのでぜひ」「****に署名お願いします」という連絡をもらう。が、それがどんな会で、何に対する署名なのか?をリンクをクリックして読む時間がない。本やCDを贈ってくれる方もいるが、やはり余裕がない。おまけに片目だ。
何より今は「向日葵」関係で精一杯。
監督業のみなら撮影が終わったので一息だが、編集を担当しているので、そちらを進めねばならない。そしてそれ以外の様々なことをやらねばならない。というのは、僕は監督、編集だけでなく、プロデュサーも担当しているからだ。源泉徴収の納付、給与振込、使用料の支払い等もあって役所や銀行に行かねばならない。撮影後の清算やあと始末。苦情の処理等。
これらは半年先にやる!
という訳にいかないものばかり。といって、それにばかり時間を割いていると編集が進まない。実際進んでいない。編集は「霊」が降りて来なければならない作業。午後1時に人に会って、午後2時から編集。午後3時に銀行なんてことはできない。
「それならプロデュサーを雇って、やらせればいいじゃん?」
という人もいるだろう。だが、そのPというのが曲者が多い。前にも書いたが彼等のためにどれだけの事件が起こるか? 全部とは言わないが、多くのPは金にルーズ、トラブル解決をする仕事なのに、自ら事件を起こすことの方が多い。あげくは僕が製作費を集め、映画を企画し、彼を雇ったのに「太田監督に映画を撮らすために、がんばりましたよ。あっはは!」などと自分が全てをお膳立てしたかのように言い、関係者に敏腕Pであることを売り込む。(そうやって、別の仕事を取ろうとするのだ)そのくせ、ルーズな行動が多く。多くの関係者に迷惑をかける。そんなトラブルを僕があと始末をして、迷惑をかけた人たちに謝罪してまわる。毎回そんな感じだった。
その後、僕自身もPの肩書きを着けるようにしたが、
他の「P」たちが同じことを繰り返したので、前作からは僕のみがPとなり、支払いから後始末までP業を担当している。(今回はプロデュサー部の補佐的存在はいるが、製作費、人事については僕が担当。最高責任者という形だ)実はそれが一番機能的と痛感した。確かに時間と手間はかかる。
でも、Pが起こすトラブル
(あとになってギャラの額を変えて、スタッフを怒らせる。不必要な出費をして製作費をオーバーする。多額の製作費を抜いて自分のものにする等)がなくなったと思えば、全然OKという気はしている。とはいえ、編集作業も進めねばならないので、このままでいいとは言えない。友人は言う。「女性Pと結婚すればいいんだよ!」でも、それが一番大変かもしれない?

2014年05月31日 Posted by クロエ at 09:56 │Comments(0) │編集作業
「向日葵の丘」和歌山の梅茶さんからのコメントー前に進む勇気

.監督さんの映画で、前に進む勇気をもらえました。
「ストロベリーフィールズ」、「青い青い空」、「朝日のあたる家」…、
どの映画も、人生のほろ苦さ、挫折や別れがありながら、前へ進む人々が描かれていて、
誰もが、波間に浮かぶ小舟でありながら、あきらめない力を持つことだけが、時代を生き抜く武器になってくれること、教えてくれていますよね。
人生、良いこともあれば、悪いこともあります。
そんな時、あきらめるという逃げ道を選ばない登場人物達が、
観る者の心にいつまでも住みついて、ことあるごとに、蘇ってくれるのです。
悲惨な経験をした登場人物でさえ、素直さを決して失わない姿が、私達に大切なことを教えてくれるのです。
新作映画、「向日葵の丘・1983年夏」の登場人物達が、私の心の新たな住人になって、心強いパートナーとなってくれること、
心待ちにしています♪
by 梅茶

2014年05月30日 Posted by クロエ at 16:30 │Comments(0) │皆様の感想
向日葵の丘ー1983年夏」監督日記 アメリカ映画が力をなくした理由(後編)

アメリカ映画が力をなくした理由(後編)
P(プロデュサー)システムであるアメリカ映画に対して、日本は監督システムである。最終的に映画の判断をするのは監督。法律的な契約的な取り決めはないが慣習的に最終編集権(ファイナルカット)は監督にあるとされる。テレビ界はアメリカと同じPシステムだが、映画は伝統的に監督が最終責任者なのだ。
さらに、近年は自分で企画し、シナリオを書き、監督してしまう者が多い。以前にも書いたが、いろんな人が間に入ると、メッセージ性が弱くなる。1人の「思い」をダイレクトに伝えることが感動を呼ぶ。つまり、日本映画は製作費は安いが、アメリカと違い、日本の伝統的なシステムが残っていることで、メッセージ性の強い、現代の観客が求めるものを作り出せる環境にあるのだ。
ただ、条件がある。いくら企画しても、映画会社はハリウッドと同じで、大スターの出る作品。ベストセラー小説の映画化等の保守的なものしか出資しない。監督たちが、いくら斬新で、観客の支持を得られる作品を作りたいといっても映画化はできない。でも、その監督が自身で製作費を調達すれば実現できる。あれこれPたちは口を出したがるし、テレビ被れのPたちは自分たちがトップだと勘違いする奴らもいるので、戦わねばならないけれど、映画の責任者は日本では監督なのだ。
そのシステムがあるから、日本は作家の思いが反映できる、メッセージ性のある映画が作れるのである。娯楽だけで終わらない作品ができる。それを求める観客が日本映画を支持。70年代とは違い、多くの人がアメリカ映画ではなく、日本映画を見るようになったのだ。さらに言えば、観客は高額な予算がかかったVFXのスペクタクルより、大スターが出ている豪華絢爛な時代劇を望んではいない。80年代までは求められたが、今は違う。それら超大作はそこそこヒットはするが、1年経てば忘れられる。
つまり、時代が大きく変ったのだ。人々が求めるものが変った。それに気づかぬハリウッドは70年代と同じ、豪華な大作を作り続け、失敗を続けている。でも、それを笑えない。日本のテレビ局が作る映画も同じことをしているからだ。ベストセラー漫画、人気俳優、を揃えて、その作品に愛のない社内ディクレクターを監督として送り込み(或いは、雇われ監督を使い)ハリウッドと同じように、現場監督として仕事をさせる。
スポンサーの注文を受け入れ、各社からクレームが来ないようなシナリオで、撮影。どこにも「愛」はない。「思い」もない。ハリウッドと同じで「儲ける」ことしか考えていない映画作り。だから、大手テレビ局が作った映画の多くは大コケをするし、1年経つともう誰も覚えてはいない。
思い返してほしい。ここ数年で見た日本映画を。「あの映画、よかったなあ」という作品のほとんどは、監督たちが、自分で企画し、自分でシナリオを書き、監督したものではないか? 低予算でも、スタッフが苦労してがんばった作品は、そこに作家たちの「思い」があり「愛」が感じられたはずだ。予算や有名俳優ではない。「メッセージ」であり「思い」こそが観客を感動させる。
今の日本映画。もちろん、いろいろと問題がある。ブラック企業を越える低賃金で長時間労働をするスタッフの現状がこれでいい訳がない。しかし、苦しさと戦いながら「思い」を捨てずにかかることで、素晴らしい作品ができるのも事実。十分な経済的な保証のあるハリウッドでいいものができないのも、同じ理由なのだ。賛否はある。でも、今、大切なのは「思い」だ。映画だけではない。「思い」がないものは支持されない。そこに時代の風が吹いていると思える。(了)

2014年05月30日 Posted by クロエ at 09:43 │Comments(0) │監督日記
向日葵の丘ー1983年夏」監督日記 アメリカ映画が力をなくした理由(中編)

アメリカ映画が力をなくした理由(中編)
実際、アメリカ映画は1990年代以降、振るわない。「マトリックス」や「タイタニック」はあったが、ヒットするのは過去のシリーズものとリメイクばかり。昔のような感動や驚きはもうない。何が変ってしまったのか? 実はその製作システムに問題があるのだ。ハリウッドでは高額の製作費をかけて、合理的に、機能的に作られている。労働時間の規制も厳しく、スタッフも十分なギャラが支払われる。スターには天文学的な報酬があり、監督もヒット作を出せば大富豪になれる。ビジネスとして確立しているのだ。
これが電化製品や車であれば、よかったのかもしれない。が、映画は娯楽であり、芸術であり、文化だ。ビジネスライクで作れるものではない。例えばアーティストが貧しく、無名のときには素晴らしい作品を作るのに、成功して、裕福になり、評価されると、急にいいものが作れなくなることがある。それで苦悩してドラッグに嵌ったりというニュースもときどき聞く。つまり、ハリウッドはその状態に陥っているのだと感じる。残念な話だが、快適な環境からいい作品が生まれるとは限らないのである。むしろ苦しい環境がよりよい物を生むことが多い。
もうひとつは、プロデュサーシステム。ハリウッドもそうだが、映画のトップはP(プロデュサー)である。監督ではない。基本、Pたちが企画、監督を決め撮影させる。上がったフィルムを連れて来た編集者に編集させる。最終編集権(ファイナルカット)はPが持っている。つまり、監督は現場監督でしかなく、シナリオに沿って、あらゆる角度から撮影する係に過ぎない。それを編集者がベストショットを選んで繋ぎ。Pが満足すれば完成となる。
それゆえ、監督たちは編集権を得るためにPとしての肩書きを持とうする。スピルバーグしかり、ルーカスしかり、キャメロンしかり。彼等のようにアーティストとしての力を持つものがPをすればいいのだが、一般のハリウッドPはアーティストではなく、ビジネスマン。経済的な力は持っていて、ベストセラーの原作を押さえる。大スターにオファーすることはできるが、社会性のあるメッセージや時代を見つめる目はほとんどない。どうすれば儲かる映画ができるか?しか考えていない。
そのために過去のデータからヒットした作品を洗い出し企画。だから、シリーズもの。リメイク。日本絡みの映画しか作れないのである。さらに、時代が変ってきたのだ。1980年代まで観客は映画に「現実逃避」を求めていた。娯楽として接していたのだ。だが、1990年代に入り、世界はいろんな意味で混迷を始める。観客は次第に映画に対して、別のものを求めるようになってきたのだ。
それはメッセージ性であり、社会性。単なる娯楽ではなく、自分の人生を社会を見つめ直すきっかけとして映画を見るようになった。そんな観客が満足する映画を、ビジネスマンであるPが企画できる訳がない。現場監督でしかないディレクターは編集権さえなく、メッセージを作品に込めることはできないのだ。では、日本はどうなのか?
(つづく)

2014年05月30日 Posted by クロエ at 08:55 │Comments(0) │監督日記
向日葵の丘ー1983年夏」監督日記 アメリカ映画が力をなくした理由(前編)

アメリカ映画が力をなくした理由(前編)
1970年代後半。僕のまわりでも映画といえばアメリカ映画だった。誰に訊いても日本映画よりアメリカ映画!といった。当時の日本映画は百恵=友和、寅さん、トラック野郎、日活はロマンポルノ。若い世代が惹かれる作品はほとんどなかった。テレビでは「西部警察」がアメリカ映画並みに、カーアクションをしているのに、日本映画はテレビドラマ以下の予算。入場料を払って見たくなるものはない。文芸ものや難病もの。タイトルを見ただけで、うんざりというものが多かった。
それに対してアメリカ映画は「タワーリングインフェルノ」「ジョーズ」「キングコング」「スターウォーズ」「未知との遭遇」「ロッキー」「サタデーナイトフィーバー」「スーパーマン」「007私を愛したスパイ」「007ムーンレイカー」「エイリアン」と、もの凄い映画を連打。日本映画とは桁違いの製作費、アイディアの斬新さ、特撮の凄さ、圧倒的な面白さに、僕らはアメリカ映画に喝采を送った。
そんな訳で僕はLAに留学。映画作りを学ぶのだが、1990年代に入り、アメリカ映画は行き詰まって来る。高額の制作費もある。有名スターも出ている。特撮はさらに進歩している。だのに、パワーを無くしていた。新しいものも出て来ない。だから、過去のヒット作のリメイク。シリーズもの。さらには日本映画のリメイクまで! 近年では日本絡みの作品(「ラストサムライ」のヒットにあやかり。日本が舞台のもの。時代劇等)まで数多く作られているが、以前のハリウッドのパワーを感じない。
日本でも、今、若い世代に訊けば「アメリカ映画より日本映画を見る」とほとんどの人がいう。なぜに、アメリカ映画は力を失ってしまったのか? 僕自身は2本の映画の登場が時代を変えたと思える。1本は「ダンサーインザダーク」ミュージカル仕立てだが、もの凄く暗い親子の物語、決して高額の制作費はかかっていない。なのに、泣けて、泣けて、泣けて、打ちのめされる。デンマークの映画がなぜ、ここまで凄いのか? 金をかけなくても、ここまで出来るのだと痛感した。
そして「ロードオブザリング」これはハリウッド映画? いや、ニュージーランド映画であり、ニュージーランド人が監督。でも、超豪華な大作。CGのパワー全開の冒険映画。この手の映画はハリウッドの十八番だったのに、もうニュージーランドでできる時代になったこと。痛感した。80年代にニュージーランド映画というと「マイドク」くらいしかなかったのに、これも時代を感じた。おまけにアカデミー賞まで取ってしまう。「ダンサーインザダーク」と共に、これら2本の映画の登場はアメリカ映画の終焉を思わせた。そこから見えて来るものがある......。

2014年05月30日 Posted by クロエ at 08:53 │Comments(0) │監督日記
向日葵の丘ー1983年夏」監督日記 お見舞い感謝

昨日の記事を読んだ多くの方から、激励とお見舞いの連絡を頂いた。
本当にありがとうございます。
電話やメールで連絡をくれた方もいた。
一時は関係者にだけメールで知らせようか?とも考えた。
が、あんな内容のメールがいきなり来る方が皆、驚くだろうと思えたので、FBにて報告という方法をとった。
中には「余計な心配をかけるので、あんなことは書かない方がいいですよ」という指摘もあったが、こんなメールもあった。
「前々から見辛そうにしていたので何か具合が悪いのではないか?と心配してました。
訊くに訊けなかったので安心しました」同様の連絡は結構あったので、報告してよかったと思える。
あと、多かったのは「健康は大事です。無理しないでがんばってください」というもの。
本当にその通りであり。応援してくれている方々の思いを感じるものだった。
ただ、クリエーターというのは、健康第一で仕事ができないことが多々ある。
何より、魂を削って作品を作るのがクリエーターである。
健康を考えていてはなかなかできない。ときには命を賭けねばならないときだってある。
思い出す話がある。
ある俳優さん。がんと診断された。
時同じくしてハリウッドから出演依頼。若い頃から憧れたハリウッド映画への出演。
でも、医者に言われる。「出演を諦め手術して、一生車椅子で生活するか? 出演して人生を終えるか?」
彼は後者を選択。ハリウッド映画に出演し、その後亡くなった。
それが松田優作さん。
出演したのは「ブラックレイン」である。
「何でそこまでして出演したいか?」と思う人もいるだろう。
でも、それがアーティストやクリエーターと呼ばれる人たち。
そこまでしても、いい芝居をしたい。感動を呼ぶ作品が作りたい。
そう思うのだ。実際、命を賭けないまでも、人生を賭けないと絶対にいいものはできない。
だが、今の映画界はそんな人が少ない。多くのクリエーターは体を壊すまで仕事をしない。
適当にうまく立ち回り。多くのギャラをもらって、早めに仕事を終えたい。という輩が多い。
監督でも、フでも、俳優でも、その種の人をよく見かける。
「製作費かかっているのに、何か詰まらないなあ〜」と思う映画はたいがい監督やスタッフ。
そして俳優がそんな意識でやっている。
人生を賭けずに作っている。そんなスタッフや、その種の俳優と仕事をしても、絶対に素晴らしい作品はできない。
感動や勇気を伝える映画を作るにはスタッフ、キャストが皆、人生賭けてかからねばならない。
そしてチームを引っ張るべき監督は人生だけでなく、命賭けでかかってこそ、最高の作品ができるのだ。
だから「毎回、遺作!」と思ってかかる。
「この作品が最後!」と思うと、全ての力を出し切ろうと考える。
遺作と呼ばれるに相応しい作品にしよう。健康やお金や生活のことより、大きな感動を伝える映画にしようと全てを賭ける。
それでこそ素晴らしい作品になる。
今回も同じだった。
目が見えなくなってもいい。それで最高の作品が作れればOKだ。
映画を観た多くの人が元気になり、ハッピーになり。感動で涙を流せば報われる。
それがクリエーターであり、映画作りという仕事だと考える。

2014年05月29日 Posted by クロエ at 15:24 │Comments(0)
「向日葵の丘ー1983年夏」監督日記
片目を失っても撮影に全力投球するのが映画監督の使命。
内緒にしておこうか?とも考えたが、何人かの関係者が気づいて密かに心配しているので、詳しく報告しておく。2年ほど前から左目が見辛くなっていた。眼科に行くとある病気だという。手術をした方がいいと言われたが、その頃はまさに「朝日のあたる家」の撮影準備でてんやわんやの時期。手術日を決めた日が撮影中になるとまずい。いや、撮影でなくても、本読みでも、衣裳合わせでも、僕の都合でNG というのはいけない。そんなことで先延ばしにしていた。
左目だけではなく、まだ問題のない右目も別の病気だと診断された。左目の進行はゆっくりだが、右目は急に来ると医者から言われた。突然に視力が落ちて目の毛細血管が破けて出血。目から血が溢れ、失明する可能性がある。が、「朝日」撮影終了後はすぐに編集、完成後はロサンゼルスの映画祭、地元での完成披露試写会、そして宣伝。全国公開。舞台挨拶ツアーと続いた。もし、手術日が先に決まっていたために、あとから決まった**市の公開初日舞台挨拶に参加できないというのは許されない。僕が行くことで、多少でも観客が増えるのだから。欠席はできない。そんな訳で「朝日」の映画館公開が終了するまで、手術の予約をしないことにした。
だが、夏が来て、秋が来て、次第に左目の視力は落ちて行き、ほとんど霞んでしか見えなくなった。そんなことを言うと皆、心配するので内緒。それでも「あれ?」という友人たちが出て来た。その内に「向日葵の丘」の製作が決まる。「朝日」の宣伝、舞台挨拶ツアーと重なり、超過密スケジュール。撮影は5月となる。この頃になると左目はほとんど見えず。片目のジャック状態。右目も急に視力が落ちて見えなくなる可能性がある。もし、撮影中にそうなったら? 何とか、撮影までに手術せねばと考えた。
ところが、やることは山積み。「朝日」の舞台挨拶ツアー。「向日葵」の準備。どちらも僕がいないとストップしてしまう。で、考えた。もし、このまま手術が遅れて左目が手遅れになっても、それは仕方ない。ここで僕が休む訳にはいかない。ただ、撮影中に右目まで見えなくなると、大変なことになる。演出ができない。とは言え、撮影が近づくにつれて、やることは増えて行く。時間が足りない。より良い作品を作るには準備が大事。どうするべきか?
毎回、遺作。そう思ってかかる。だから、これで手術が遅れて左目が見えなくなっても構わないと思った。そのことで準備を遅らせたくない。少しでも良い作品にするため、全ての時間を自分の為ではなく映画のために使いたい。ただ、撮影中に両目が見なくなるというのはマズい。そこで、僕の映画の全て撮影してくれており、今回もカメラを担当してくれるSさんにだけは、そのことを話しておこうと考えた。だが、もし、撮影中に目が見えなくなるかもしれないことを伝えても無意味なことに気づく。盲目の監督なんてどーしようもない。座頭市のように音だけで判断するか?それは無理。事実を伝えても彼に余計な心配をかけることになるだけだ。
すでに左目が見えず、右目も突然見えなくなること。結局、伝えなかった。が、撮影後に彼から言われた。「目。大丈夫ですか?」何で分かった????撮影中におかしいと気づいたという。凄い観察力!彼が腕のいいカメラマンというだけでなく、監督である僕の健康まで心配してくれていたことに胸が詰まった。そして、やはり事前に話さなくてよかったと思う。彼には心配をかけず、素晴らしい映像を撮ることに専念してもらうことが大事なのだ。
そこで初めて事情を話し、その数日後に眼科を訪ねた。医者から酷く怒られた。「なぜ、こんなになるまで来なかった!」だって、診断を受けて、即手術!と言われたら困るから........そんな訳で徹底した検査を受けることになる。前回、診療を受けてから気づくと2年が経っていた。その間に2本の映画を撮影した。失明しても後悔はしない。
検査の結果。左目はもう光を感じるだけ。右目も「いつ失明してもおかしくない状態」と言われ、また厳しく叱られた。「今日、ここに来る途中に失明していてもおかしくないんだよ!」そう言われ、その日の内に緊急手術。幸いにも成功。が、問題は左目。今も検査を続けている。果たして手術をしてよくなるものか?どうか?まだ分からない。おまけに手術が込み合っていて、夏まで待たねばならない。
医者はこう言った。「いくら仕事が大事とは言え、目が見えなくなったら元も子もないよ!」けど、自分の目のために映画準備が疎かになり、致命的な問題が起きることの方が怖い。目は2つあるけど、映画は今回駄目だから次がんばるでは済まない。だから、毎回、遺作のつもりで全力でかかる。でも、まあ、ひとつ間違っていたら撮影中に右目も見えなくなる可能性もあったのだ、、、、撮影中に監督が目から血を流したら、みんなビックリするだろうなあ。。。。
なんて笑い話にはならない。が、僕が撮影前に手術を予約したとして、もしかしてその日が「本読み」の日になったかもしれない。俳優たちのスケジュールはタイト。僕のために本読みが中止になり、そのまま撮影になったときに、俳優たちが戸惑い、いい芝居ができないということだってあり得る。スタッフとの打ち合わせができず、そのときに僕が伝えられなかったことが原因で大きなトラブルになることもある。病院も手術予定がいっぱい。両者の都合のいい日に手術はできない。だから、撮影が終わるまで手術はしないと決めた。
左目が見ないままの撮影は厳しいものがあったが、幸い右目は撮影中に失明することはなく。無事にクランクアップした。あとは、夏の手術がうまく行き、完成試写会のときに両目で「向日葵の丘」を見れることを願うばかりだ。作品が遺作になるのはいい。でも、目が見えなくなり、生きていながら自分の映画が見れないのは辛いものだ。ま、片目でも見れればOKだと思うが。。。
以上、報告まで、薄々感じていた方。
心配してくれた方。申し訳なかった。
でも、編集は片目でできるので大丈夫。
がんばります!

2014年05月28日 Posted by クロエ at 09:51 │Comments(0) │撮影を終えて
「向日葵の丘」時代は変わるー出会いと別れ

今回の映画。舞台となるのは1983年。
当時、僕は21歳。自主映画作りをしていた。8ミリフィルムで映画を作り、宣伝、上映会。業界の人たちに認められてプロデビューを目指す。80年代後半のバンドブームのようなもので、世間も注目。多くの若手がチャンスを掴んだ。が、そんな絶好の機会は長く続くこともなく、業界では「8ミリ映画をやっていたくらいでは、プロとして通用しない!」という意見も増えて行き、やがて自主映画出身者への扉は閉ざされて行った。
僕はそんなビッグウェーブに乗り遅れた1人。
「いや、まだまだ、俺はがんばるぜ!」という友人もいたが、ある歌を思い出す。ボブディランの「時代は変わる」。そう、自主映画ムーブメントは終わり、時代自体が大きく変わろうとしていることを感じた。時代の波が変わるのだから、僕自身も舵を切らなければ。。。。そんな予感がしていた。実際、日本は間もなくバブル時代に突入する。
83年に「バイバイ・ミルキーウェイ」
という青春ファンタジー8ミリ映画を撮り、上映会を終えたあと。僕はアルバイトを始める。「もう、日本で8ミリ映画を続けていてはいけない!」そう感じたからだ。そして、ロサンゼルスの南カルフォルニア大学に留学(USC)。映画科を希望していたが、語学力がないので、まず英語コースからスタート。もちろん、LAで勉強したから、何か大展開がある訳でもない。ハリウッドで就職できるものでもないのだが、変わり行く時代の中で、昔からの憧れである映画の聖地で勉強することに意味があると強く感じたのだ。
その後、USCの映画科に合格。
憧れのジョージ・ルーカスらの後輩となり、大学生生活を続けていたのだが、5年ほど経つと、また大きく時代が変わることを感じた。このままアメリカにいても何も変わらない。そう思えて、1年後に帰国。日本でシナリオライターを目指しながら、アルバイトを始めた。実際、日本ではバブルが崩壊。アメリカはコンピューターバブルで不況を打破。復活して行く。再び時代が大きく動き始めた。
「あ!時代が変わる。このままじゃいけない」
と感じるとき、舵を切る。最終的な目標はいつも同じだ。映画監督になり、多くの人を感動させる映画を作ることなのだが、時代の波が変わるときには、航路を変えることも大切。ときには荒波の海であっても、その航路を選ばなければならない。理由はよく分からなくても、自分が感じたことを信じて進むことで、結果、大きな展開をしてきた。
帰国してもう、23年。
「時代は変わる」と感じることがしばらくなかったが、今回の「向日葵の丘ー1983年夏」を撮る前から、久々に「何かが変わる?」という感覚が蘇って来た。時代が変わるのか? 日本が変わるのか? 僕の環境が変わるのか? 何が変わるのか?まだ分からないが、大きな何かが変わろうとしている。ただ、時代の変わり目はいつも寂しい。
長年の友人との別れ、
住み慣れた場所を去り、環境が大きく変わる。引っ越しをするからという意味ではない。時代の変わり目にはいつも、大切な人との別れが訪れる。運命が引き裂くとしかいえない別れが訪れる。新しい物語の始まりは、終わり行く物語で共に戦った、或は、助けてくれた仲間が必ず去って行く......。
それが「時代は変わる」ということなのか? 時代を超えるためには犠牲がつきものか? 共に夢見た仲間をおいて行くしかないのか? そして、いつも僕はそれを見送るだけだ。ただ、新しい出会いもある。これまでに出会わなかった人たちが登場し、大いなる力を貸してくれる。応援してくれる人もグンと増える。それは本当にありがたく、うれしいことなのだが、新しい船には乗れない友のことを思うと、心が引き裂かれる。
だが、留学時も、帰国時も、その悲しみを超えて次のステージに上がり、新たなる戦いがスタートした。そう、たぶん、今回も次なる戦いが待っているのだ。多くの新しい仲間と、同時に古くからの友人たちと共に挑む戦い。希望を伝える映画作りをせなばならない。時代の涙を拭き、前に進まねばならない...。

2014年05月27日 Posted by クロエ at 16:34 │Comments(0) │撮影を終えて
「向日葵の丘」遺作と思うことでベストの作品を

毎回。遺作!
と思って映画作りに挑む。次はない。だから、これで完全燃焼する。それが僕の映画作りだ。次を考えると、いろんな人に気遣いをしてしまう。「こんな演出したら、次からスタッフは誰も参加してくれないかも?」「***さんの意見も取り入れないと、今後は応援してくれないよな?」次を考えると、そんなことが心配になり結果、次のために今を自己規制してしまう。
多くの監督はそんなふうに関係者に気遣い、
今、自分が本当に願う最高のものを作るよりも、次も仕事ができることを優先。いろんな人の意見や指示を受け入れる。でも、それでよりよい作品になることはまずない。多くの場合は作品レベルの低下に繋がる。「みんなで意見出し合って、仲良くやればいいじゃん!」と言う人もいるだろう。が、以前にも書いたが、歌でも、映画でも、作品は1人のクリエーターの思いを、ダイレクトに伝えることで観客は感動する。いろんな人の意見を取り入れたものは、メッセージが弱くなり感動に繋がらないのだ。
その意味で僕の映画。
多くの人が評価してくれたのは、「我がままだ!」とベテランスタッフによく言われたが、自分の思いを曲げずに映画を作りをして来たからだろう。でも、次を考えると本音として嫌でも「じゃあ、今回は***さんの顔を立てて、彼のアイディアを取り入れましょう」「お世話になっている**社長のところの俳優を3人、キャスティングしよう」というような妥協をしたに違いない。シナリオがおかしいと言われれば、明らかにアホとしかいいようのない関係者でも満足するように直したかもしれない。
が、面白いもので、次を考えて、まわりを気遣い、
いろんな意見を取り入れて映画を作った友人監督。その1本で終わってしまった。関係者は皆、それぞれに勝手なことをいい、その監督は調整係のように意見をまとめ映画にした。なのに、彼等は満足しなかったという。要は最大公約数的な作品になっていたのだ。一応、意見は反映されている。でも、映画として魅力ない。誰もがそう感じた。大手企業が作った映画がいい例。いろんな人が口を出すと、そうなってしまう。
一方、遺作!と決めた僕の映画は、
シナリオ、キャスティング、演出、編集。全てに対して好きにやった。もちろん、いろんな人がいろんなことを言い、圧力を掛けて来たり、脅したり、人参をぶら下げたり、様々な手を使い、自分たちの意見をごり押しした。が、どうせ遺作。このあと死ぬんだから、しがらみもないし、最後は好きにやらせてもらおう!てな思いで、全員が敵にまわったこともあったが、思いを通した。次はなくていい! 遺作だと思わなければ、そこまで出来なかっただろう。でも、結果として評価される作品になった。すぐには展開しなかったが、次への布石になり、数年後に2作目を撮ることになった。
今は多くの関係者が僕の作品を理解してくれており、
あれこれ意見をいう人はもういない。「太田の思うようにやらせて上げよう」という仲間たちが支えてくれている。本当にありがたい。ただ、「青い青い空」のあとは過労で倒れ、半年間寝たきり生活を送った。1人で7人分くらいの仕事を数年に渡ってするからだ。覚悟としてではなく、本当に遺作になりそうになった。その危険性は今回もある。前作「朝日のあたる家」の準備を始めた2011年秋から休みなく、翌年の撮影。公開。宣伝。全国舞台挨拶ツアー。それとダブって「向日葵の丘」準備。年が明けて撮影準備。そして撮影と2年半ほど休みなし。先日も病院で検査を受けたが、果たしてどうか?
けど、これだけは言える。
次も仕事ができるように今回は我慢しようでは絶対に駄目。先にも書いたが結果、次には繋がらない。今、目の前にある仕事を全力でやることで、結果として次に繋がる。「向日葵の丘」の戦いは第3部編集へと突入している。作業を続ける!
