「向日葵の丘」映画はクリエーターの「思い」がダイレクトに伝わらないと感動を失う?

ようやく編集作業をスタートさせたのだが、打ち合わせ等が入り、作業に専念できない。
編集も、シナリオと同様、缶詰になり集中しなければならないので、人と会い話をするとトーキングモードになると、作業ができなくなる。
とはいえ、この段階から映画宣伝を考えていかねばならないので、早く決めねばならないことがあり、必用な会議ではあるのだ。
話を編集に戻すが、通常はシナリオは脚本家が書き、監督は現場で撮影に臨み、編集はエディターがする。
それぞれのエキスパートが行う。それぞれに違った資質が必要。シナリオは繊細でクリエイティブ。
そして物語を作る力。監督はスタッフを束ね、俳優とコミニュケーションをして、演技を引き出す力。
編集は映像のセンスを駆使して、見せる力。でも、僕の場合は3つとも担当する。
3つもできることを自慢したいのではなく、今の時代はそれが大切なのだ。
歌の世界と同じ。昔の歌は作詞家の先生が作詞。作曲家の先生が作曲。それを歌手が歌い。バックでバンドが演奏する。
そんなふうに歌謡曲は作られた。でも、今は、ローリングストーンズやビートルズと同じ。
アーティストが作詞作曲して、自分で演奏して自分で歌う。
日本の歌手も今は ほとんどが、そのパターン。
何が違うのか?
いろんな人が作品作りに関わると「思い」が薄くなるのだ。
作詞家の先生が素晴らしい歌詞を書いても、それを理解しない作曲家が曲を作るとメッセージが弱まる。
それを歌手が理解しないと、さらに駄目になる。理解しても、50%60%では弱くなる。
それをそもそも作ったクリエーターが全てを担当すれば、そのメッセージはダイレクトにリスナーに届き、感動を伝える。
間に人が入ることで、弱くなるのだ。
だから、歌謡曲形式が衰退。バンドスタイルが人気を博している。
映画も同じ。昔は脚本家の先生が書いたものを、現場の仕切りのうまい現場監督が演出し、センスのあるエディターが映像を
編集して映画が作られた。が、それでは「思い」は寸断され伝わらない。
1人のクリエーターが全てを担当することで、「思い」がダイレクトに伝わる。バンドと同じ。
ハリウッド監督のルーカスも、スピルバーグも、キャメロンも、皆、自分たちで企画した映画を、自分でシナリオにし、演出、編集。
完成させる。「思い」がダイレクトに伝わる。
だから、彼らの映画は世界中で人気となった。
僕の映画も同じスタイル(予算は全然違うが!)、僕自身が企画。
原作はなくオリジナル・シナリオとして 、僕自身が書き、僕自身が現場で演出。僕自身が編集し、仕上げる。
1年近く休みなしの作業になるが、そうすることで「思い」をダイレクトに観客に届けることができるのだ。
ま、残念ながら、バンドでいう「歌う」=「演じる」はできないが、それをやってしまったのが、チャップリンだ。
彼の映画が時代を超え、感動を伝えるのは彼の思いがダイレクトに届くからだと思える。
ただ、「シナリオ」「監督」「編集」というのは全く違う資質が必要だし。使う感覚も違う。
監督はアクティブで社交的。ある意味で戦闘隊長のようなものだが、編集はナイーブで繊細な感覚を持つ孤独な職人気質が大切。
真逆の性格?!シナリオ執筆と同様にその種の「霊」(?)が降りてくることも大事(詳しくは監督日記 の「シナリオ」編を!)
その切り替えができず、この数日苦しんでいるという訳だ。
何といっても、ほぼ別人になるのだから大変。
人間がオオカミに変身するのに近い?
そこまでは行かないか?

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2014年05月21日 Posted byクロエ at 11:58 │Comments(0) │編集作業
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