「向日葵の丘」僕が映画を作る訳

今朝、書いた記事。「監督がPを兼任する理由」。
そのあと、移動中のバスで考えた。
なぜ、僕は監督業をしているのか? そんなことを考えていた。
そう、学生時代。1970年代から1980年代にかけて、僕は映画ファンで、テレビで映画館で、名画座で映画を見まくっていた。
当時はまだレンタルビデオも、DVDもなく。見たい映画を見ることは大変。
何年も待って名画座で見るという感じ。そんな映画に何度も助けられた。
特に絶望の連続だった暗黒の高校時代は、多くの映画に支えられた。
スティーブ・マックイーンに、チャールズ・ブロンソンに、ジェームズ・コバーンに、応援された。
スピルバーグに、ルーカスに、コッポラに励まされた。
その内に自分でも映画を撮りたい!と思い、8ミリカメラを手に学生映画を作るようになった。
それが高じてアメリカ留学、そして、帰国後は日本で映画の仕事をするようになるのだが、、、、
しかし、映画界で仕事するようになってからも失望の連続だった。
誰が見るの?というような作品を平気で作り。ピンハネに次ぐピンハネ。制作費の横領。誤摩化し。嘘。
情熱もなく、ただ目先の金を稼ぐためにだけ仕事する人々。
生活のためだから仕方ないよ・・・と、情熱もなく働く先輩たち。
古い習慣を頑に守り。合理性のない方法論で、お茶を濁すような作品を作り続ける老人たち。
そんな世界で仕事をしていて、絶望。多くの仲間が去っていった。
が、僕は決意する。「我慢して、耐えて、つまらない仕事をするのも大変。
それなら本当にやりたい仕事をしよう。
どうせ大変なのなら、本当にやりたいことで苦労しよう」そう考えて、自分で制作費を集めよう、映画監督を目指そうと思った。
学生時代に見た作品のような、「明日もがんばろう!」「負けずに生きていこう!」そんな感動と涙が溢れる映画を作ろうと思った。
諦めるのではなく、そんな思いに至ったのは学生時代に観た映画の影響だろう。
「ロッキー」「がんばれ!ベアーズ」「大脱走」「明日に向かって撃て!」諦めなければ夢は適う。
必ず答えがどこかにある。映画から学校では教えてくれなかったこと、たくさん教わった。
そんなメッセージを今度は僕が若い世代に伝えるのだ。
いろいろあったが、5年がかりで制作費を集めて初監督映画を完成させた。
それから9年。4作目の「向日葵の丘ー1983年夏」を編集中。今も変わらぬ思い。
映画を観た観客が「明日もがんばろう」と思う作品。忘れていた大切なものを思い出す映画を作りたい。
でも、魑魅魍魎が蠢く業界だ。それを続けるのは簡単なことではない。
だから全てを捨ててかかる。人生賭けて映画を作る。名誉でも、金でもない。
そんな思いでかかっている。そうすれば、きっと今回も伝わる作品ができるはずだ。

「向日葵の丘ー1983年夏」監督日記
「向日葵の丘」時代は変わるー出会いと別れ
「向日葵の丘」遺作と思うことでベストの作品を
「向日葵の丘」映画は「悲しみ」を「希望」に変える仕事。
「向日葵の丘」撮影が続いている夢
向日葵の丘”撮影終了ー帰京して、ちょうど1週間。
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2014年05月19日 Posted byクロエ at 17:49 │Comments(0) │撮影を終えて
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