「向日葵の丘」僕が高校時代に考えたこと(前編)。今から38年前の話

僕が通っていた高校は、大阪の進学校。ほとんどの生徒が、そこそこの大学に行く。生徒たちは、テストの点に一喜一憂し、教師たちはいかに、いい大学に行かせるか?ばかり考えいた。
成績=人格のような風潮があり、大学がステイタス。成績が悪いものは人間失格。理不尽なことをする教師も少なからずいた。当時、16歳だった僕。
「何か違う・・」
と思い始めた。だが、2年のときの担任は言う
「勉強するのは自分のため」「自分を鍛えるために勉強するんだ」
そうだろうか? 本当に僕らのためなのだろうか?日常生活では使わない微分積分や古典を学ぶこと。自分のためなのか?中学時代と合わせて6年も学ぶのに、話すことができない英語は意味あるのか?もっと大切なことがあるんじゃないか?教師たちももっと、やるべきことがあるんじゃないか?その後、10年20年と考え続けた疑問である。
僕の学生時代。がんばって勉強し、いい大学に行けばいい会社に就職し、終身雇用で、生涯安定だった。だったら大手の、一流の企業に就職したい。そのために、一流大学、有名大学に入るということが大事。そんな社会背景があった。クラスメートに言われた。
「太田はすぐに何のために勉強するのか? こんなことが役に立つのか? なんて言うけど。そこで立ち止まっていても、何も変わらないぞ。とにかく、勉強して成績上げればいいんだ。一流大学に入ればいいんだよ。それからゆっくり考えろよ」
こんなことを言うクラスメートもいた。
「勉強せずに、成績悪いと、ろくな大学には行けない。いい大学を出ないと、まともな就職はできない。負け犬になる。世の中が悪い。社会が間違っているといっても、それじゃ負け犬の遠吠えなんだよ」
それでも納得は行かなかった。何が正しいのか? 何が大切なのか?僕が、映画監督の道を選んだのは、その答えを見つけるためかもしれない。しかし、答えは簡単に見つからなかった。
なぜ、学校で学ぶこと。将来役に立たないのか?人生であまり役にた立たない数学や古文を教えるのか?6年間も学ぶのに、なぜ英語が話せるようにならないのか?中学1年のとき、英語の授業があること本当にうれしかった。
でも、次第に嫌いになった。なぜ、英語が好きな生徒が嫌いになるのか?それは教え方が間違っているのではないか?結局、僕はアメリカに留学。英語を学んだ。6年かかっても話せなかったのに2年でかなりできるようになった。やはり、日本の英語教育は間違っている。
中学高校の6年間。もの凄い記憶力があり、多感な時期。無意味な学科を教えるだけでなく、その間に伝えるべき、大切なことがあるんじゃないか?
将来、何の役に立たない学科を教えるより時代を見つめる目を育てること。人の気持ちを理解すること。教えるべきではないか?
(つづく)

「向日葵の丘」その昔、僕がトラブルメーカーと呼ばれた理由?
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2014年09月21日 Posted byクロエ at 23:16 │Comments(0) │思い出物語
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